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徳川吉宗

とくがわよしむね


[徳川吉宗]
1684~1751
徳川御三家の一つ、紀州藩第二代藩主徳川光貞の四男として生まれ、紀州藩第五代藩主の身から江戸幕府第七代将軍に就任した。紀州藩主時代の経験を生かして自ら質素倹約を実行し、新田の開発、公事方御定書の制定、目安箱の設置など「享保の改革」を行った。破綻しかけていた幕府財政を再建したことから「江戸幕府中興の祖」とも、また、米相場の安定に苦心したことから「米将軍」ともいわれた。吉宗は、180cmを超す長身で色が黒く、関取と相撲を取ったこともあったといわれるが、着物は木綿、食事は朝夕の二回で献立も一汁三菜で済ませた。この質素倹約と武芸の奨励によって武士たちの精神を引き締めた。また、自ら注文して象を輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせて象ブームを巻き起こしたり、隣国伊勢の山田奉行であった大岡忠相を見出して重用したり、飛鳥山や隅田川堤に桜の植樹をしたことでも知られる。1751年に68歳で亡くなった。