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田中角栄

たなかかくえい


[田中角栄]
1918~1993
第64代~第65代と二期にわたる内閣総理大臣。大正7年(1918)5月4日に、新潟県刈羽の古い農家の次男として生まれました。高等小学校を卒業すると、上京して中央工学校に学び、卒業後は一級建築士資格を取得して東京、飯田橋に土建会社を設立しました。1946年の第22回衆議院選挙で進歩党公認から立候補しましたが落選、翌年の第23回衆議院選挙に新潟3区から民主党公認で出馬して衆議院議員に初当選しました。ときに28歳の若さでした。以後、39歳で岸信介内閣の郵政相として初入閣し、その後、蔵相や通産相を歴任しました。佐藤首相退陣の後を受けて54歳で首相に就任しましたが、農村出身の低い学歴でありながら首相の座に昇りつめたことから「今太閤」「庶民宰相」と呼ばれました。議員としては、「日本列島改造論」を唱えて開発主導型の経済政策を進め、100本を超える議員立法を成立させました。その中には、自らが中心となって全面改正を実現させた道路法や、道路、港湾、空港などの整備を行うそれぞれの特別会計法が含まれ、戦後日本の社会基盤整備に大きな影響を残すした反面、自分の選挙区に多くの大形公共事業を次々と持ち込む手法に対して利益誘導型の政治だという批判も受けました。首相在任中には、日中国交回復を実現させるなどの功績もありましたが、1974年に金脈問題を追及されて首相を辞職しました。更に、「総理の犯罪」の異名を持つ「ロッキード事件」で5億円の収賄と外国為替、外国貿易管理法違反の容疑により秘書らと共に逮捕されました。しかし、次の総選挙で22万票の圧倒的支持を集めて当選し、その力が依然として健在であることを誇示しました。その後も、闇将軍の異名をもち、巨大派閥を率いて自由民主党内で大きな影響力を持ち続けましたが、1985年に脳梗塞で倒れてからは急速にその力を失いました。晩年はロッキード事件の無罪を求め続けましたが、上告審中に死亡し、公訴棄却となりました。