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高杉晋作

たかすぎしんさく


[高杉晋作]
1839~1867
江戸末期の長州藩における討幕運動の指導者で、萩藩士の長男として生まれました。1857年に藩校明倫館に入学し、19歳のときに吉田松陰の松下村塾に入門、英才を発輝して久坂玄瑞と共に松門の双璧と称されました。1857年には江戸の昌平黌に入学。帰藩して毛利定広の小姓役となり、以来藩政に関与しました。1862年、藩命により上海へ渡航し、西洋列強に支配されつつある太平天国の乱下の清(中国)の状況を見るなど海外情勢に接しました。帰国後は藩論を尊皇攘夷に転換しようと努力しましたがかなわず、亡命して尊王攘夷運動に従事するようになりました。同年11月、松陰門下生など25名と共に品川御殿山の英国公使館の焼打ちを敢行しました。萩に帰って隠棲した後、長州藩の下関における外国船攻撃に際して起用されましたが、外国船の火力の前に完敗しました。6月、藩命により奇兵隊を組織して総監となり、馬関総奉行として下関防御の任に当たりました。奇兵隊の“奇”は正規軍の“正”に対する“奇”で、庶民も入隊できる有志隊でした。同年8月18日の政変で長州藩が京都から一掃されると、高杉は藩内に高まる武力上洛論に反対して京都進撃を主張する急進派の説得に尽力しましたが失敗して脱藩しました。しかし、1864年に四か国連合艦隊の下関砲撃事件がぼっ発すると善後処理を命じられ、講和条約の正使として条約を締結しました。また、1866年には薩摩藩との間に薩長同盟を結び、反幕府の態勢を固めました。同年6月の第二次長州征伐には、海軍総督として幕府との戦闘を指揮しましたが、同年10月、肺結核を重くして退職し、翌年4月に討幕を見ずに下関で病死しました。ときにわずか29歳の若さでした。