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平清盛

たいらのきよもり


[平清盛]
1118~1181
平安時代末期の武将で、伊勢国(三重)の棟梁・平忠盛の長男として生まれました。中納言、藤原家成に仕えて鳥羽上皇の恩顧を得、保元の乱では源義朝らと組んで後白河天皇側に加担して勝利しましたが、続く平治の乱では源義朝を討ち、三男の源頼朝を伊豆国(神奈川)に流罪したほかは一族をことごとく滅ぼしてしまいました。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築いたのでした。その後は、後白河上皇の信を得て昇進を続け、1167年には武士として初めて、異例の従一位、太政大臣に昇りつめました。更に、娘の徳子を高倉天皇の中宮とさせ、安徳天皇の出生によって天皇の外戚としての地位を固めました。清盛は、太政大臣になってすぐに病にかかり、それを理由にわずか3か月で辞職して出家しましたが、実権は手放さず、福原遷都や南都焼き討ちを命じるなど強圧的な施策によって武家政権の確立を図りました。この間、一族で主要官位を独占し、全国に500余りの荘園(私有地)を保有し、また、日宋貿易を推進するなどして莫大な財貨を手にして平家一門の全盛期を築きました。一族の平時忠が「平家一門にあらずんば人にあらず」といって繁栄を誇ったのはよく知られた話です。しかし、こうした清盛の独裁政治は朝廷や各地の武士らの反感を買うことになり、伊豆に流した源頼朝や木曾の源義仲などが次々と挙兵して平家の専横に立ち向かう事態を招きました。清盛は、1181年、諸国の叛乱が激化するなか熱病により64歳で死亡しました。